少林寺拳法関東学生OB同友会
 今日に至る経緯  

少林寺拳法関東学生OB同友会のあゆみを、同友会創立メンバーの出身母体である少林寺拳法関東学生OB会連合会の結成に至る過程から振り返ります。
本稿は2019年10月に発行した同友会30周年記念誌の記事を元にしたものです。

 

History 1

関東学生OB会連合会結成

関東学生OB会連合会結成のいきさつ

昭和37年(1962)6月、山川重治(明治大学)・日野和喜(東京農業大学)他を中心に関東学生連盟が結成され、初代委員長に日野和喜が就任した。同年11月には、後楽園ジムナジアムで、早くも記念すべき、第1回関東学生大会が開かれ、学生拳法の先駆者である岡田孝毅(慶應義塾大学OB)は、すでにこの大会で観客席から見ていた唯一の学生OBであった。  その後、開祖は関東学連を立ち上げた草創期の学生メンバーの実行力には目を見張り、特に初代委員長であった日野和喜の卒業後の進路については大変気にしていたらしく、卒業する年には、開祖は日野に「お前、卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「私は商売人の子だから、やはり商売します」と言うと、開祖は「おお、お前、商売に励んだらいいじゃないか。しかし学生の面倒も、これからもよく見てくれよ」と言われた。そのため卒業後も関東学連OB(山川・日野・新井田・寺岡・水野(英)・石井(敬)・新井(英)・鵜野他)を中心に、第11回の大会までの間、大会の運営にも引き続き皆で携わることになった。当時、第1回から第11回大会頃までは、乱捕りが盛んで、学生拳法にはものすごいエネルギーがあった。また、OB同士の絆も深く、親睦をより深めるために、当初は「関東学生OB会(会長・新井英晴(法政大学OB))」という学連OBを中心とした会も作り活動していたが、いろいろな事情で、そのOB会も昭和44年8月に一度解散をすることになる。しかし、会は解散したもののOB同士が連絡をとりあえるようにと、昭和46年(1971)4月には「OB会々員名簿」も発行され、OB同士の絆は途絶えることなくより強く続いていった。その当時の様子を日野和喜は、「月刊少林寺拳法」(1994年4月号)で、こう述べている。
 
 大学生を育てよう、リーダーを育てようというのが開祖の夢だったわけですね。ですから少林寺拳法の連中が天下をとれ、リーダーシップをとれ、ということがわれわれにとって使命だったわけですよ。
 ところが大学に拳法部ができて十年ぐらい経つと、学生が一般の道院の人たちをバカにし始めたわけ。あれは拳法じゃない、あれは踊りだというようなことまで言い始めた。
 でも実際はどちらのほうが増えているかといったら、道院の人たちのほうが増えている。大学生は四年間しかやらない。技をなんぼ磨いたって四年間だ。そして自分では続けていないのに、自分の現役時代のイメージだけが残ったままというOBも多い。
 道院の人たちは、十年、二十年とずーっと地道にご指導されている。これでは技も考え方も歴然と差がついてきますよね。最初は学生は勢いがあったけど、一〇回大会ぐらいを境に一般の先生たちが今度は力がついてきたわけです。開祖は社会に出ても道場を開きながら、なおかつ自分の健康増進と精神力を磨き、それをみんなに教えることが大事じゃないかといわれたけれども、実際学生のほとんどは卒業したら少林寺をやっていない。少林寺のお手伝いすらもしてないという人たちが出てきたんですね。そういうときに「いやこれは頼りにならん」と。
 これは僕の想像として話をさせてもらうけど、乱捕りが主体となっているOBの人たちをいったん崩せと、崩壊させて新たに乱捕りのない人たちの舞台で第十一回の大会からやれという指示が出たんじゃなかろうかなと。
 開祖は学生を見捨てたんではなくして、一回頭を冷やせというて、当時のOB会を解散させたんだろう。でもその後開祖が「またOB会を作れよ」と声をかけてくれたので、OB会が再結成されたんです。
 現在は私は少林寺拳法というのは技だけでなしに社会的地位の向上を狙わなければならないと思っているんですよ。これを狙うのには学生がいちばん早いのね。卒業したらどんどん、いろんな部課長や社長になってきているわけですから。それと、拳法やっている人たちと一般の人たちの融和をはかるライン作りというか組織作りというか、そういうものを始める必要があるんじゃないかと思い始めたわけです。それをすることによって少林寺拳法の社会的な地位向上をせなあかんですよ。
 それが開祖の狙っていたところだと思うし、われわれもそれをどうしても進めたいなと思っているわけです。

 

第1回関東学生大会パンフレット

 このような背景の後、昭和54年(1979)12月4日、その年に少林寺拳法議員連盟会長に就任した江﨑真澄衆議院議員の出版記念パーティーが開催された。その会場で、開祖と山川重治をはじめとする草創期の関東の大学OBたちが久しぶりに再会、親しく語り合う中で、開祖より「お前ら学生の間だけのつきあいではないだろう。また一緒になってやれ。そろそろ関東学生OBの組織を発足させてはどうか……学生OBは集まるようになっている」との話があった。その一言で再び発足に向け準備を進めていた最中の昭和55年(1980)5月12日、開祖の突然の訃報を受け、大きな動揺がOBや学生間を走った。しかしその後、本部に戻っていた鵜野哲自(日本大学OB)に、少林寺拳法本部 鈴木義孝事務局長(当時)が、「関東の学生OB会を作って下さい」と開祖の遺訓を伝えてきた。
 さっそく日野和喜にその旨を報告、関東学生連盟を通じて各大学のOB会代表者を召集した。
 当時の、少林寺拳法東京センターは、ホテルニューオータニそばの紀尾井町秀和TBRビルに所在しており、その会議室を場に、同年7月12日、関東のおよそ100校に参加を呼びかけ、約80校が集結。参加校の全校に同意を得て、設立した。
 そして事務局の鵜野哲自を中心に、規約は弁護士である木村眞一(東京大学OB)が、名簿は岩崎良三(日本大学OB)が担当。以降、日野・井上・吉川・吉田・石井(敬)・新井田・都筑・加藤・新井(英)・鵜野・木村・後藤・前嶋らが集まり、当初は都立大学駅近くの焼肉屋で、その後は事務局の補佐をしていた磯谷孝夫(獨協大学OB)の勤務先近くの新宿セブンシティ(年金基金センター)〈現在は取り壊されてしまった〉の会議室を借り、日野和喜を中心に、各人の仕事後に幾度となく会合を重ね、発起大学による「少林寺拳法関東学生OB会設立趣意書」を作り、また、会員は個人ではなく各大学OB会ということで、会の名称を正式に「少林寺拳法関東学生OB会連合会」と定めることになった。なお、この設立趣意書は都筑美好(東海大学OB)の縁で日本橋「紫山堂」に頼み、毛筆手書きで作成された。
 そして当時は大きな夢のもと、結成当初のOB会連合会組織図を作り、初代会長 山川重治のもとで運営の一歩を踏み出すことになる。
 以後、名簿の完成を待ち、昭和57年(1982)6月20日、ホテルオークラで開催された「少林寺拳法関東学生OB会連合会設立祝賀会(実行委員長・日野和喜)」を迎えることとなる。なお、この祝賀会を終え、翌年の昭和58年(1983)4月に、第2代会長として日野和喜が就任、また、事務局の中心として活躍した鵜野哲自も、これら組織図・規約・名簿の完成、そして設立祝賀会を見届けて、事務局を磯谷孝夫に引き継いでいる。

 

関東学生OB会連合会設立祝賀会